CASSHERN(キャシャーン)はもっと評価されていい

ちょうど今日TVでキャシャーンを放送していたので、前に映画館で見たときに思わず書いた感想を再掲。

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最も感嘆したのは、ラスト。
というか、ラスト5分のために、退屈な2時間30分の前振りがある。
だが、この退屈でお尻の痛くなる2時間30分があるおかげで、ラストの凝縮度・速度がものすごい。

1〜2分くらいの間にものすごいスピードの中で
カラマーゾフのイワンとアリョーシャの対話を展開しながら、
すべての伏線の意味をつまびらかにし、
敵のボスに絶望の中での死をあたえ、
答えられない問いを問いかける。

キャシャーンは現代の仏典である。
エヴァLCLの液体の中で皆が溶け合い、ひとつになる極楽の1つの形を
提出したが、キャシャーンが提供したのは
液体の中で常に復活し続けてしまう地獄の世界。

復活を前提とした輪廻転生の世界の中で
終わらない戦いの連鎖をどうやったら断ち切ることができるのか。

安定をもたらすシステムによる抑圧を禁止し(アメリカ・イスラエル)、
愛するものを奪われた憎しみによる戦いを禁止し(テロ)、
愛する人のために生きることを禁止し(家族)、
抑圧される者たちの救済を禁止し(キリスト?)、
その上で、なすべきことはなんであるかと、
キャシャーン(我々)は問われる。

キャシャーンがやらねば誰がやる!
そんなこと言ったって、そこまで禁止されてキャシャーンにいったい何ができる?

映画は、残念ながら安直な答えを提示して終わる。
いわく、
「人間は生まれ、存在するだけで他人に迷惑を与える」
「だから、まずは他人が存在することを許さなくてはならない」
「人がお互いに許しあうことで、はじめて世界は穏やかに回り始める」

はっきり言って、ダメダメである。
ま、といっても、そのひとつ前の段階で、
愛する人のために生きる」というもうひとつの安易な答えを否定した上で、さらに次を探っているので、この終わり方は単に原作による制限なのかもしれない。

ただ、このような安直な終わり方をしてもなお、この映画の価値は減じられることはない。
なぜなら、その答えはありえない、ということを映画自身が証明しているから。
この映画の中では、この答えにかかわる伏線だけが常にリアリティのない演出で表現される。
というか、どうやったとしてもリアルでありえない状況でしか「赦し」は行われない。
それは、奇跡として、または信仰としてのみ許されている行為である。
その奇跡を奇跡でないものとして描くために、映画は最後にキャシャーンとその恋人の間に、希望という名の子供が生まれた、としてラストを飾る。

もちろん、そこで生まれるものは希望でなどありえはしない。
そこで生まれるのは絶望であり、その絶望のために彼らは輪廻の輪からはずれて永久に消滅する悟りの道を見出す。

エヴァは「逃げちゃダメだ」と叫んで、LCLの海から陸(現実世界)に戻り
キャシャーンは「逃げろ」と叫び、輪廻の海から宇宙(そら)へと逃げ出した。

少なくとも、今、キャシャーンが問われた問いに対する答えは悟りの道しか存在しないだろう。
だけど、さらにうがって見れば、その悟りの道でさえ実際にはお話の中にしか存在しない(キャシャーンはSFである。現実ではない。)。

アメリカがあり、イラクがあり、イスラエルがあり、パレスチナがある。
愛する人がいて、殺される人がいて、殺す人がいる。
少なくとも我々が生きるこの世界でキャシャーンの問いは有効だ。
そしてその問いに答えることは今の俺にはできない。

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追記:
キャシャーン反戦映画として見てはいけない。
反戦映画として見てしまうと、かなり糞だ。
般若心経みたいなものとして見た方がいい。

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ちなみに、キャシャーンはかなりエヴァを意識していると思う。
エヴァとは正反対だけれども。
# エヴァの「逃げちゃダメだ」に対してキャシャーンの「逃げろ」
# エヴァの「LCL」に対するキャシャーンの「新造細胞」
# エヴァのラスト2話に対するキャシャーンのラストシーン
# エヴァキリスト教に対するキャシャーンの仏教

俺の感想は、「やっぱりイエス・キリスト仏教徒だよな」ってところかな。